◇  歌舞  ◇  犀遠(さいおん)編 01


 声が出ないと、兄さまの所為だと泣かれた。
 服をつかまれ、行っては嫌と抱き付いて離れなかった。

「馬鹿馬鹿、兄さまの馬鹿!! ここに居てくれるって、さっき言ったくせに!! いつも嘘を付いて宴に出るんだからぁ!! わたくし、知ってるのよっ!? 知ってるんだからぁ!!」
 酷く興奮しているように、普段は大人びて見える妹が駄々をこねて泣き叫んだ。

 それは夜のことだった。今夜は宴がないから夜に会いに行けるよ。久しぶりに一緒に寝ようか、と他愛もないことを話した。妹は酷く喜んでくれて、楽しみに待ってるから、と満面の笑顔で言ってくれた。
 その後に伺った、悪戯の好きな、まだ大人に成りきれていないような皇帝様が、まさに悪戯を思いついた子供のように楽しげな顔で、こうおっしゃった。
「今夜は宴をするぞっ!! 大物を呼んでやった!! お前の歌声に釣られて来るんだ!!
 すごいだろう!! なにせ、散々自慢してやったからな!!」
 それと、お前の名舞台、期待しているからなっ!! ・・・とも。

 断れるはずなかった。自分はこの年若い『皇帝様』に仕えているのだから。
 雇われ人にとって、主人の命は、最優先。
 断れるはずなど、なかったのだ・・・。
 第一、例え、断ったとしても、それが叶うことなどないに等しいことなのだし。

 そして、それを真名璃に、楽しみに自分を待っているだろう真名璃に言いに行ったのは、ちょうど約束の夕方の頃・・・。
 そして、今に至る訳なのだが・・・。

「ごめん、ごめんよ、真名璃。でも、今日は、どうしても行かなくてはならない宴で・・・。
 皇帝様のお知り合いの、とてもお偉い方がお見えになったそうでね。兄さまの歌を楽しみにしてくれていると仰るんだよ・・・」
「嫌嫌っ!! そんなの嘘!! 兄さまはそういって、いつも宴にお出になるじゃないのっ!!
 そんなことを言ったら、皇帝さまのお友達だもの、皆偉い方に決まっているわっ!!」
「真名璃・・・」
 ここのところ宴に出る機会が多く、あまり構ってあげられなかった所為か、今日こそは、今夜だけは兄さまと一緒に居る、一緒に寝るんだと、先刻からの騒ぎよう。
 一緒に居てあげたいのは、山々なのだけど・・・。
 そうもいかなくて。
「ごめんね、真名璃・・・。明日は、明日ならきっと一緒に居てあげられるから・・・。一日中だって一緒にいてあげられるかもしれないから・・・。お願いだよ、今夜だけは行かせてくれないかな・・・?」
「嫌よ、そんな嘘なんかに騙されないんだからぁ!!」
 真名璃は珍しく手の付けようもないほど荒れていた。
 泣いても泣いても泣き足りないと言うように、先ほどから一向に泣き止む気配もない。
 普段は大人びているのに・・・。
 やっぱりまだまだ子供なのだと、こういう時、ふとそんなことを思う。
 寂しいのだろうか・・・?
 母も父もろくに構ってはくれない人だし。
 いつも「兄さま、兄さま」と後ろをついて回っていた幼い妹。
 未だ、兄離れが出来ていないのかもしれない、最愛の妹・・・。
 愛しくて、自慢で、誇りであるけど、こういう時は、少しだけ、困る。
「本当だよ、兄さまは真名璃に嘘なんか付かないよ。信じて? ね? いい子だから・・・」
「いい子じゃなくていいものっ!! だから判らない約束なんかよりも、今、兄さまと一緒に居る方がいいのっ!! そっちの方を選ぶわ!!」
 それはまるで大人の"女"の吐く台詞だった。
 恋する乙女の懇願の台詞だった。
 ・・・ただ、真名璃があまりにも幼すぎて、その熱い台詞は、逆に酷く罪悪感を刺激するように小さく痛み伴って響いたのだけれども。
「真名璃・・・。我が儘を、言っちゃいけないよ・・・」
 ほとほと困り果ててしまう。
 妹を大事に思うあまりか、自分は妹に関しては無理強い出来ない性質なのだ。
 妹の意思を・・・尊重して止まないのだ。
 だって、大事な妹。
 この世でただ一人の、自分の妹だから。
 父は政治欲旺盛で、偶々気に入ってもらえたこの声を歌を使って、少しづつ昇り詰めだした。
 母は、父と比べて欲のない人だと思っていたが、この歌声が皇帝様に誉められたとき、人一倍驚き、ついで、人一倍胸を張リ出した。
 この子は自慢の息子なんですのよ! 聞いてくださいまし。あたくしの息子が皇帝様に・・・。
 嫌気が差したのは本当のこと。家から遠ざかりたくなったのも、本当。
 お前はそれでも男か!!
 真名璃をあやすのはいいが、男児たるもの政治も武芸も勉学も、磨かねばいかんのだぞ・・・!!
 父も母も、もう好きではなくなってしまっていた。
 彼らは『出来のいい息子』が欲しいのだ。
 『自分の思い通りになる子供』が欲しかったのだ・・・。それだけだった。
 ただ、幼い、何も知らない自分を無心に頼ってくる、妹が、真名璃だけが好きだった。
 真名璃だけが家族だった。
 今となっては、そう思う。
 だから、真名璃が母に強制的にしろ歌を習わせに宮廷に来る事になった時は、酷く嬉しかった。
 知り合いの居ない宮廷。
 "家"のしらがみからは解き放たれたが、ひとつ、真名璃のことだけが気がかりだった。
 それを宮廷に歌習わせに。
 愚かな母。真名璃に歌なぞ習わせて、自分の二の舞にでもするつもりか。
 でも、それでも真名璃が身近に居る事が嬉しくてしょうがなかった。
 無理言って、真名璃の部屋を近いところに置いてもらった。
 ただ、嬉しかったのだ。
 会いに行った時は、お互いただ抱きしめ合って、会いたかったと繰り返した。
 今、思うとあれは恋人同士の再開のように思えて可笑しい。
 真名璃は不安だったのか、ひどく抱き付いて離れなかった。
 それまで、自分が不安で日々の生活さえ緊張していたというのに・・・。
 途端、心配になって気遣い。気づいたら、緊張も何も忘れていた。
 気が、楽になった・・・なっていた。
 笑みがすんなりと出来るようになった。
 歌も緊張して歌うことなど、なくなってしまった。
 全て。
 全て真名璃のおかげだ。
 気づいたのか、皇帝様は、真名璃のことを言った。
 いい子じゃないか、と・・・。
 その一言で皇帝様のことが、前よりずっと好きになった。
 真名璃が居たから。
 真名璃が居てくれたから。
 真名璃が、自分の妹だから・・・。
 大切で可愛いこの少女を、大事にしようと思った。
 我が儘だって、思うまま言わせてあげたい。叶えてあげたい。
 そう、強く思った。
 だけど・・・。
「今日は絶対に宴には行かないって言った癖にっ!! 嘘つき、兄さまの嘘つきぃっ!!」
 こんな大事なときに、駄々をこねられると正直、困ってしまう他ないのだ。
 ただ、困るだけ。
 実は、真名璃を慰められたことなど、一度としてない。
 彼女は最後は自分でちゃんと自分を取り戻して、迷惑かけてごめんなさい、と己から謝るのだから。
 しかし、今回に限って、それはなさそうである。
 一体、どうすればいいのだろう・・・。
 掴んで離さない服の裾も。
 可愛らしい小さな指だから、自分でも簡単に外せるだろうとは思う。
 でも、そうしたくない。
 出来ないのだ。
 傷付けたくない。
 優しい『兄さま』で居たい。
 だから・・・。
 だから・・・。
「兄さまの馬鹿馬鹿!! 一緒に居て!! 一緒に居るって言ったじゃない!!」
「真名璃・・・」
「一緒に居てくれないと、もう口も利いてあげないんだからぁっ!!」
 今日の真名璃は、いつも以上に子供だった。
 まるで、本来の己を晒しているみたいに。
 でも、それも可愛いと思った。
 逆らえないものとは、誰にでも必ずあるものだ。
 逆らってはいけない皇帝様と、逆うことが出来ない、真名璃という少女。
 この時確かに天秤は、真名璃に傾いた。
「わかった、わかったから、真名璃。今日はもう、このまま真名璃と一緒に居るよ」
「嘘つき、嘘よっ!!」
 行くと言ったら嫌、居ると言っても嘘、と返ってくる真名璃の声。
 それがやけに愛情の多さを物語っているようで、いけないと思ってもつい満足で頬が緩む。
「本当だってば。一緒に居るよ。真名璃と居るんだよ? 今夜はもう、宴なんかには行かないから。
 だから、機嫌を直して・・・ね?」
「・・・本当に?」
「兄さまは、真名璃に嘘なんか付かないよ」
「・・・何度も付かれたわ。兄さまは嘘つきだって、その度、思ったわ」
「真名璃・・・」
 苦笑しか出てこなかった。
「何よ、本当のことだもの。兄さま、よく嘘付くんだもの・・・!!」
 むきになって言ってくる。
 その様子が可愛らしくて、ただ笑みを誘われた。
「ごめんね。もう、付かないようにするから。だから兄さまを信じてくれるかな? 真名璃は」
「兄さまを? いつも信じて裏切られているのに?」
「真名璃・・・」
 よく言うようになって・・・。
 その言葉に少なからず傷つく。でも、笑みで隠して、懇願した。
「ごめんってば、真名璃・・・。あまり兄さまを苛めないでくれないかな・・・?」
 困った顔に気が付いたのだろう。
 真名璃はようやく御免なさい・・・と小声で呟いた。
「だって、兄さまがいけないのよ・・・? 一緒に居てくれるって言った癖に・・・。駄目になったなんて突然、言うんだから・・・。わたくしはね、兄さま」
 下から真名璃に覗き込まれるようにして、視線を合わせられた。
 ちゃんと聞いているか、確認しているみたいな真名璃の動作。
 下からなのに、覗き込まれているようだとは、どういうことだ、と自分でも可笑しくなる。
「もう! 兄さま、ちゃんと聞いて!!」
 真名璃は笑みに気づくと、途端お姉さんぶって、注意する。
「兄さま、わたくしはね、守れない約束はして欲しくないの」
 そんなものはいらない。嘘の、その場しのぎのものなど欲しくない。
 ひどく真摯な顔でそう言う。
 言葉に重なるようにして、まだ見ぬ大人の女の毅然とした姿が見えた気がした。
「出来もしないことを、簡単に安請け合いしないで欲しいの。無理なら無理と、駄目なら駄目と言って欲しいの」
「真名璃・・・」
 真名璃がそんなことを考えているとは思いもしなかった。
「わたくしは我が儘だけど、それくらいの分別はあるつもりなの」
 いつまでも子供だと思っていたのに・・・。
「いつまでも子供のままじゃないのよ? わたくし、兄さまに出来るだけ迷惑を掛けたくないの」
 まるで通じ合っているかのような言葉。
 真名璃は事実、自分が思っているよりは大人のようだ。
「だから、いいって言われたら、どうしても期待してしまう。困らせたくないって思っていても我慢できなくなってしまうの・・・」
 泣き出しそうに歪んだ顔。
 涙はさっき止まったばかりだというのに。
「いいよ、我慢なんかしなくても。真名璃はいい子なんだから・・・」
 涙を見たくないがゆえに、それに優しい言葉をかける。




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